五戸真理枝演出『貴婦人の来訪』@新国立劇場(2022年6月9日)

 円安、インフレ、年金カット、目の前に貧乏に向かう坂がリアルに見えている時に見るのはあまりにキビシい作品だった。あの学校の先生(津田真澄。『ダウト』の黒人生徒の母親)の叫びはすべての「西洋的な価値観で生きている人間」がこれから抱える叫びなんだろう。ゾンビの中で「私もいずれ感染する」的な……


【新国が出しているあらすじ】
小都市ギュレン。「ゲーテが泊まり、ブラームスが四重奏曲を作った」文化都市も昔の話、今は荒れはて、町全体が貧困に喘いでいる。ある日、この町出身の大富豪クレール・ツァハナシアン夫人が帰郷する。町の人たちは、彼女が大金を寄付し、町の経済を復興させてくれるのではないかと期待に胸を膨らませる。
夫人は人々の思惑通り、巨額の寄付を申し出るが、同時に一つだけ条件をつける。
「寄付はするが、正義の名において、かつて私をひどい目に遭わせた恋人を死刑にしてほしい」...。


 クレール(秋山菜津子)はかつて妊娠した自分を捨てて店持ち娘と結婚したイル(相島一之)に復讐するべく故郷に戻ってきた。クレールが認知を求める裁判を起こしても、イルは偽証する証人を雇って自分たちも彼女と関係を持ったと言わせ、有責を逃れた。ギュレンを出てハンブルクで娼婦になり、生まれた子どもも一年で死んだ。しかし結婚を繰り返す中でけた外れの富豪となり、自分の正当な主張を退けた街に「金で正義を買う」ために戻ってきたのだった。
 人々は、もちろん最初は「そんなことができるか」と拒絶する。だが彼女は「待つ」という。次第に人々は、「つけ」でいろいろモノを買い始める。なにしろ、いずれ大金が転がり込むかもしれないのだ。この提案を受け入れて買った服やモノは「黄色」というのが効いている。人々の衣装がだんだんと「黄色」(金の色?)に染まっていくのが本当に怖かった。時間が経って再登場するとあの人も堕ちたか、またあの人も……と確認しなくてはいけないのがツラい。実際、長年窮乏生活が続いた人々にとって、この「取引」を長い間ぶらさげられるのは逆・兵糧攻めのようなものだろう。
 この「変化」は、イルにとっては死刑に賛成する陪審員の数がどんどん増えていくのを目の当たりにするようなものだ。そのストレスは想像するに余りある。また、華やかになっていく他の人たちの衣装と、イルの着ているもともとのボロとのコントラストが見事で、最後は鼠色の孤島のようであった。
 あきらめを経て、彼は街の男たちに集団で「殺される」。ひとりが首を赤い紐で絞めると、他の男たちがラグビーのスクラムのように集まってきて加勢する。その人山からイル本人は幽体離脱した存在のようにはい出てきて、その顛末を少し離れたところからぼんやり現実をみていた姿がよかった。

 そして支配者クレールは常に孤高。クレオパトラを思わせる輿に乗ったボブ(赤毛だけど!)が、けた外れの横暴な振舞にぴったり。但し、「彼が死んだら柩をナポリの海が見える別荘に埋めて、ずっと一緒にいたい」という、行動の底の底にあった望みに最終的にサロメの香りがしてそこには驚いた。秋山菜津子という存在の強烈さ。ただ、彼女ならチラ見せする「過去の闇」をもっと深くもできたとは思うのだけれど。演出のバランスなのだろうか。

 弾劾裁判、イルを責めるシュプレヒコールつきの演説の狂気の高潮に電気がショート。これはちょっと冷静になるところのはずなのに、むしろメディアに頼まれて録画用の「再放送」ができてしまう狂気が示される。1958年にはメディアももうこんなにクレイジーだったか。

 「集団殺人」を犯したあと、もう生々しい反省ほかの心理は描かない。全員が黄色に花柄のドレス・ズボンと黒い上着を身に着け、声をそろえる合唱で開き直って終了。これも台本通りなのか演出なのか。ちょっと『レ・ミゼラブル』の「民衆の歌」を思わせる前半が特に「盗人たけだけしいな……」という感じでインパクト強し。濃い舞台だった……

 ただデュレンマット、『物理学者たち』でも思ったけど( https://operaandarts.seesaa.net/article/202109article_12.html )、なんとなく女性の側の被害には最終的に本気で取り組んでいる気がしないんだよな……そこがちょっと残念。


貴婦人の来訪.jpg



 終演後、京王新宿駅を出たところの喫茶店でちょっと一休み。ビネガーサワーでひと息ついたのだった……


亜麻亜亭.jpg

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック